加茂野弁財天池祭り

加茂野弁財天 池祭りについて

加茂野弁財天 池祭りについて


武田 和男

むかし話になりますが、わたしが青年団に入団し、池祭りに加わったことをかいつまんでお話しさせて頂きます。

当時の池まつりは毎年7月16日に執り行われました。自宅に親戚・友人などを招き、「うどん16杯」と言われ、まずうどんで客を招きました。当時の農家はどこも小麦を栽培しておりました。小麦でうどんを作って豊作を祝うと同時に、その源泉たる大池の水へ感謝を込めて「ため池祭り」を催しました。

主催は加茂野青年団で、7月になると毎日池周辺の草を刈り、筏を作り、毎晩太鼓、笛の練習をしました。楽譜もない無形文化で、新たな入団者には先輩が丁寧に指導し、見よう見まねで継承したものです。毎年テープで流しているのは当時の音です。

祭り当日は青年団の家に夕方5時頃集まり、まずうどんを食べ、勢いづけに酒を飲み、リヤカーで荷物を積んでいけまで歩きます。池周辺に配した狂俳の蝋燭に火をつけるのは女子青年団の役目でした。消えると点けを繰り返し、一晩中消えることはありません。その周辺にはおびただしい数の露天で賑わいました。当時は池の周りをぐるりと道が囲んでいましたが、歩くのがやっとなくらい人で溢れていました。

池まつりは、筏に船頭が4人と、奏者らが8人ほどが乗り込み、太鼓や笛で迫力満点の音楽を奏でました。曲の速さに合わせて筏の回転も速まり、船頭は汗だくになっていました。クライマックスが近づくと、毎年他町村の若い衆がやってきて、酔った勢いで筏に石などをぶつけ、提灯などはほとんど落ちて、筏も形がなくなるほどでした。

池まつりの費用は、団員が手分けして太田の商店をまわり、寄付を募りました。わずかな費用でしたが、翌晩は太田まででかけて、盛大な反省会を開催したことを覚えています。

当時はほとんどが農家でしたが、だんだんサラリーマンが増え、最後には団員4名となり、何とか続けようと悪戦苦闘しましたが、ついに諦めて辞めてしまいました。

その後10年を経て、最後にやめた者(岸達雄・武田和男・藤吉重道・藤吉義秋)が集まり、もう一度やろうと決めました。商店街をまわって100万円ほどの資金を集め、資材を買い、主催を自治体に依頼して現在に至っています。

最後になりますが、今は昔と違い、たったひとつの事故で伝統文化を失うことがあります。水分補給を怠らず、事故にはくれぐれも注意し、今年も盛大な池まつりを開催しましょう。

よろしくお願いします。